大正時代



文豪に愛された熱海

明治29年に開通した人車鉄道(小田原~熱海)は、明治40年には機関車が牽引する軽便鉄道となり、それまで皇族や政界の大物をはじめとした一部の特権階級に限られていた熱海の来遊客は、大正の時代になると徐々に庶民へと広がりを見せてきました。しかし、その中心は、やはり学者や文人といった、いわゆる“知識階級”の人たちや、急速に財を成した実業家たちでした。

彼らの中には、熱海に別荘を構えるものも少なくなく、大湯を中心とした当時の市街地の外縁部には彼らの別荘が点在し、それに伴って、熱海の市街地も次第に拡大していきました。別荘の主の代表格といえば、坪内逍遙(文学者)と内田信也(実業家・政治家)でしょうか。
明治から昭和にかけて、文学、演劇、教育などの多方面にわたって多くの業績を残した坪内逍遙は、病気療養の長兄に付き添って、初めて熱海を訪れて以来、たびたびやって来ていましたが、明治45年1月には荒宿(現在の銀座町)に別荘を構え、大正8年には水口村(現在の水口町)に300坪の土地を購入、『双柿舎』を建て、ここに移り住みました。逍遙は、熱海町(当時)に自らの蔵書を寄贈し、これを基に『町立熱海図書館(現在の熱海市立図書館)』が設立されたほか、近所の住人や芸妓たちとも親しく交流し、『熱海の栄』、『熱海町歌(現在の熱海市歌)』を作詞するなど、熱海の文化の向上にも大きく貢献しました。
熱海市歌
熱海の栄
一方、海運業で巨額の富を得、“船成金”とも例えられた内田信也は、大正8年、年老いた母の静養の場として、熱海に別荘を築きました。これには、軍人であり政治家でもあり、当時、政財界に大きな影響力を持っていた三浦梧楼(号は観樹)の強い勧めがあったもので、完成の際には『湘雲荘』と記された扁額が送られたといいます。この別荘は、後に、鉄道で財を成した根津嘉一郎の別荘となり、第二次世界大戦後に桜井兵五郎の手に渡り、旅館『起雲閣』と名を変えました。『起雲閣』は、数多くの文豪なども迎え、昭和の熱海を語る上では欠くことのできない華やかな舞台の一つとなりました。
このほかにも、熱海には多くの人々が訪れています。後に昭和天皇となる皇太子迪宮殿下、船で熱海にやって来て紀行文『熱海土産』を著した島崎藤村などです。
また、明治時代に一世を風靡し、熱海の名を全国に知らしめた尾崎紅葉の小説『金色夜叉』、これの名場面である熱海の海岸に観光名所として『金色夜叉の碑』が建立されたのが大正8年、熱海の土産品として温泉で蒸した饅頭が考案され売り出されたのが大正13年、国鉄熱海線(現在の東海道本線国府津~熱海)が開通し、現在も使われている熱海駅舎が開業したのが大正14年と、熱海は少しずつ観光地としての体裁を整えていきました。
そのような中、大正7年4月、丹那トンネルの掘削工事が始まりました。予想以上の難工事のため完成までに16年、開通は昭和9年まで待つことになりますが、現在の熱海の基礎となる一大プロジェクトが動き始めたのも、この時代でした。


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