昭和時代



丹那トンネルの開通と熱海温泉の変化

昭和9年(1934年)12月1日、丹那トンネルの開通によって、大正7年(1918年)着工以来16年の歳月をかけた熱海線が完成しました。これにより東京~沼津間は所要時間2時間28分、御殿場廻りと比較して38分短縮されたのです。
熱海側と三島側の両方から始まった丹那トンネルの掘削は、当初は工事期間7年、予算770万円(当時)の予定でした。しかし実際は16年間にも及び、費用も3倍以上かかる結果となりました。この工事が難航したのは、日本列島を真っ二つに分断する大断層を突っ切って掘るということと、芦ノ湖3杯分にもおよぶ湧水と、空気に触れると膨張する「温泉余土」とに絶えず遮られたためです。これを乗り切るため、セメント注入法などの最新の技術と多くの労働力が必要とされました。しかしながら、4回の生き埋め事故が起こり、直接従事者だけでも67名の死者を出すこととなったのです。工事は下請け制度がとられ雇用関係が複雑だったために、正確な死亡者数は不明となっています。この多くの犠牲者を伴った丹那トンネルの開通は熱海発展の大きな契機となりました。東京からの来遊客に関西方面からの来遊客も加わり、熱海への来遊客は目覚しく増え、また、湯治から団体中心へと旅行形態が変化する中で、熱海の旅館数は増加し、その規模も拡大され、市内には誘客のための様々な施設が整備されるなど、熱海は湯治場から温泉観光都市へと大きく変化していったのです。
毎年4月上旬には、熱海の発展に大きく貢献した丹那トンネル開通への感謝と、工事で犠牲となった殉職者の方々へ慰霊の誠を捧げるため、丹那トンネル感謝祭を執り行っています。
丹那トンネル貫通万歳!(出典:熱海市史)

「熱海市」の誕生とさらなる躍進

昭和12年(1937年)4月10日午前0時、「熱海市」誕生の合図を知らせる花火が打ち上げられました。熱海町と多賀村の合併により市制が施行されたのです。
合併に至る前の昭和9年(1934年)に熱海町長となった坂本藤八は、丹那トンネル開通によってもたらされた経済的発展を基に、温泉観光都市建設をめざして熱海に市制を布くための準備を始めました。
当初は、熱海町・多賀村・網代町の2町1村で市制が実現する方向で進められましたが、網代町はあまり前向きではありませんでした。昭和12年(1937年)1月3日午前0時に行われた市制施行のための調査では、熱海町の人口は2万6,961人(うち旅館滞在客7,225人、別荘滞在客1,268人)、多賀村は4,195人、網代町3,607人という結果となりました。市制施行に必要な人口は3万人という条件でしたから、この調査結果から合併に賛同していない網代町を含まなくても熱海町と多賀村の2町村で市制施行が可能となったのです。今では考えられないことですが、人口という条件に「定住」という規定がないため、熱海に宿泊客が最も多い正月を選んで調査が行われたのでした。初代熱海市長には樋口修次が選出され、新生熱海の舵取りを行いました。
昭和12年の市制施行時には、網代側の消極的な空気により、熱海と網代の合併は実現にいたらなかったものの、昭和27年(1952年)合併の話が再燃、28年には町村合併促進法が制定・施行され、合併の気運が高まりました。翌年の静岡県町村合併審議会小委員会の事務局試案では、網代町の地域性、経済的生活圏などから熱海市に編入されるべきものとされました。
昭和31年、新しく市長に就任した小松勇次と、網代町長、間瀬康雄により合併問題の推進が確認されました。一部には反対の声はあったものの、市町両当局は賛成の意向が強く、昭和32年2月には静岡県知事の合併勧告が出され、熱海市・網代町はそれぞれ事務手続きを進めることとなりました。3月19日には網代町の解町式が行われ、昭和32年4月1日、熱海・網代の合併が実現、装いと規模を新たにし、躍進の歩みを踏み出したのです。

熱海大火からの復興

昭和25年4月13日午後5時15分ころ、ガソリン入れ替え作業のかたわらで、煙草に火をつけたマッチの燃えさしを捨てたことにより火災発生。火は折からの15メートルの東風のため、たちまち燃え広がりました。出火と同時に全市の消防団が出動し懸命の消化に努めましたが、強風にあおられた猛火は斜面をはい上り、飛び火して8か所が同時に燃え上がる大火となったのです。市内には川や水源はありましたが、二車線通行のできる道路がなく、曲折と坂道が多いため消火活動は難航し、大火は、東町・渚・銀座・浜町・本町・糸川町・新宿・下天神町・天神町など、市の中心部、繁華街を総なめにし、上天神町の一部も焼いて、14日午前0時半ころようやく鎮火しました。
この大火の被害は、焼失979棟、被災1,465世帯、5,745人、損害55億円にのぼり、市の4分の1が壊滅しました。焼失建物には、市役所・郵便局・公会堂・警察署・消防署・食糧公団事務所などの官公署のほか病院・百貨店や40余軒の温泉旅館もあり、市の中枢機能はほとんど失われてしまいました。
市長の宗秋月は、市会議員全員と共に国会に行き、大臣室を借りて市議会を開くなど、苦心して復興計画を作りました。静岡県は「災害救助法」を発動して必要物資を急送し、国鉄も生活必需品は1ヶ月間無料輸送、建築資材は3ヶ月間半額輸送としました。5月1日には静岡県熱海復興事務所が開かれ、都市計画も含めた本格的な復興が始まりました。 また、8月1日には、「熱海国際観光温泉文化都市建設法」が公布され、同法3条で「国及び地方公共団体はその事業の促進と完成とにできる限りの援助を与えなければならない」と規定していたため、大火によって壊滅した都市機能の復興に対して国際的な観光温泉文化都市という方向性と財政的な裏付けを与えるものとなりました。
更にこの年の6月に始まった朝鮮戦争の影響により特需を生み、日本経済の復興を早め、この好況が熱海にも波及しました。
こうして熱海市の復興は順調に進み、区画整理による市外中心部の再建、道路・港湾の整備、市庁舎・観光会館の建築、衛生施設の建設整備、市営住宅の建設など、国際観光温泉文化都市としての社会基盤が整えられ、昭和28年末には大火以前の水準をしのぐ状態となったのです。

新幹線熱海駅の開業

戦前、東京~下関間の弾丸列車計画によって新丹那トンネル熱海口は約700メートル掘削され、戦争の影響により放置されたままになっていましたが、戦後の復興の中で浮上した新幹線計画によって、新丹那トンネルは再び脚光を浴びることとなったのです。
昭和34年4月20日、東海道新幹線の起工式が新丹那トンネル熱海口で行われ、東京オリンピックに向けて熱海温泉のホテルが競って拡張を行っている中で、新幹線の工事も着々と進行していました。当初10駅と計画された新幹線停車駅の中に熱海駅も予定され、在来駅の北側に密着して新幹線熱海駅が建設されていきました。
昭和39年10月1日、東海道新幹線が開業。熱海駅のホームは人で埋め尽くされ、下り7時28分、上り7時36分の一番列車を熱狂して迎えました。
新幹線の開通により、特急「こだま」は東京~熱海間を58分で結び、さらに翌40年のスピードアップで55分に短縮されました。開業以来10か月間の新幹線各駅の1日平均乗降客数を見ると、熱海駅は8,092人で、東京、新大阪、名古屋、京都についで第5位となり、6位の静岡の5,832人を大きく引き離しました。
新幹線開通は、熱海を「東京の奥座敷」から、「全国の温泉保養地」へと発展させていくこととなったのでした。

新幹線開通熱海駅お出迎え新幹線開通時の熱海駅
新幹線開通時の熱海駅の様子

熱海が生んだ芸術家・澤田政廣

釈迦像を制作する澤田政廣先生(昭和59年)
釈迦像を制作する澤田政廣先生(昭和59年)

澤田政廣は、熱海出身の芸術家であり、その歩みは、明治27年熱海町に生まれ、熱海尋常高等小学校卒業後、韮山中学校へ進みましたが、中退して木彫の世界を目指したことが始まりです。
政廣は、大正10年帝展初入選「人魚」などの大正年間は本名の寅吉で出品し、昭和2年帝展特選「白日夢」の頃からは寅、昭和7年「華炎」「吉祥天」制作の頃は晴廣と号し、昭和31年に政廣と改めています。その旺盛な制作活動は、仏典や神話に題材をとった作品から記念像、人物像など多岐にわたっています。作品について政廣は次のように述べています。「・・・・美しく彫刻されておったとしても、その作品に芸術品としての生命がなく呼吸が止まっておったなら、それは芸術品とは言い得ない。それでは、その作品の生命であり呼吸とは何か、それこそ作家の心にやどる詩であり、詩魂こそ芸術の生命を守る、呼吸であると私は固く信じる。」

文化勲章受章(昭和54年)その後、政廣は、昭和37年日本芸術院会員となり、昭和48年には文化功労者として顕彰され、翌年、熱海市より熱海市名誉市民称号第1号を贈られました。また、昭和54年には文化勲章も受章されています。これにより、熱海市では澤田政廣記念美術館建設の運動が始まり、昭和62年11月3日熱海市立澤田政廣記念館が開館しました。しかし、翌63年5月1日、政廣は東京世田谷の自宅で93歳の生涯を閉じられました。
この熱海梅園に隣接し建てられた美術館は、政廣作 彫刻200点、絵画1,200点、その他180点、澤田政廣を囲む人々240点、澤田政廣コレクション4,690点など合計6,500余点を収蔵し、訪れる人々の鑑賞に供されています。

澤田政廣記念美術館の詳細はこちらからご覧ください。
文化勲章受章(昭和54年)

熱海市観光会館講演会(昭和58年) 熱海市観光会館講演会(昭和58年)
熱海市観光会館での講演会(昭和58年)の様子


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